自分の合気道 ― 2009/01/07
最近”今回昇段することができ、・・・道を究める努力を惜しまず「自分の合気道」を探求していくつもりです。・・・”というメールを見たとき、「自分の合気道」という言葉が心にひっかかった。
実際合気道の稽古は、自分のその時の状態しか出ないので、「自分の」はいうまでもないことである。したがって「自分の」をつけると、次のような意味に感じられる。
つまり、真の合気道は自分にはわからないので、合気道の修行を自分のわかる範囲に枠を作ってしまっている。また、これによく似た表現に「あの先生の指導は解りやすい」というものがある。これも「解りやすい」ことを高く評価していることで、真の合気道とは別物である。
真の合気道は、わかりにくい、あるいは難しいものである。「合気道は愛だ」と開祖が言われた。相手を投げるのに何が愛だ、と思うのは自然である。そこを「合気道は愛」ということを求めて修行するわけだから、難しいのは当然である。
実際合気道の稽古は、自分のその時の状態しか出ないので、「自分の」はいうまでもないことである。したがって「自分の」をつけると、次のような意味に感じられる。
つまり、真の合気道は自分にはわからないので、合気道の修行を自分のわかる範囲に枠を作ってしまっている。また、これによく似た表現に「あの先生の指導は解りやすい」というものがある。これも「解りやすい」ことを高く評価していることで、真の合気道とは別物である。
真の合気道は、わかりにくい、あるいは難しいものである。「合気道は愛だ」と開祖が言われた。相手を投げるのに何が愛だ、と思うのは自然である。そこを「合気道は愛」ということを求めて修行するわけだから、難しいのは当然である。
「相手を投げるのに何が愛だ」と思う自分に焦点を当てて、禊をし、その自分を落として、一段階上の自分を発見するのが、合気道の修行であり、稽古だ。合気道に「自分の」をつけると、本当に修行する気があるのか疑わしくなる。へそ曲がりかな?
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