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    <title>あしゅらの合気道雑感</title>
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    <pubDate>Tue, 29 Aug 2017 16:58:31 +0900</pubDate>
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      <title>克己随神</title>
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      <pubDate>Fri, 30 Dec 2011 19:29:02 +0900</pubDate>
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      <description>&lt;DIV class="asahi_editor_line"&gt;&lt;BR&gt;&lt;/DIV&gt;&lt;DIV class="asahi_editor_line"&gt;&lt;DIV class="msg-pict-2" style="text-align: center;"&gt;&lt;IMG width="300" height="200" src="http://mutan.asablo.jp/blog/img/2011/09/22/1a732f.gif" style="border: currentColor; width: 300px; height: 200px;"&gt;&lt;/DIV&gt;&lt;/DIV&gt;&lt;DIV class="asahi_editor_line"&gt;&lt;BR&gt;&lt;FONT color="#000000" face="ＭＳ Ｐゴシック" size="3"&gt;&#13;
&#13;
&lt;/FONT&gt;&lt;P class="MsoNormal" style="margin: 0mm 0mm 0pt; text-indent: 10.5pt; mso-char-indent-count: 1.0;"&gt;&lt;FONT color="#000000"&gt;&lt;SPAN style="font-family: &amp;quot;ＭＳ 明朝&amp;quot;,&amp;quot;serif&amp;quot;; font-size: 10.5pt; mso-bidi-font-size: 12.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century; mso-fareast-language: JA;"&gt;古事記を学びなさい。開祖がよく教えられたそうである。&lt;/SPAN&gt;&lt;SPAN lang="EN-US" style="font-size: 10.5pt; mso-bidi-font-size: 12.0pt; mso-fareast-language: JA;"&gt;&lt;O:P&gt;&lt;/O:P&gt;&lt;/SPAN&gt;&lt;/FONT&gt;&lt;/P&gt;&lt;FONT color="#000000" face="ＭＳ Ｐゴシック" size="3"&gt;&#13;
&#13;
&lt;/FONT&gt;&lt;P class="MsoNormal" style="margin: 0mm 0mm 0pt; text-indent: 10.5pt; mso-char-indent-count: 1.0;"&gt;&lt;FONT color="#000000"&gt;&lt;SPAN style="font-family: &amp;quot;ＭＳ 明朝&amp;quot;,&amp;quot;serif&amp;quot;; font-size: 10.5pt; mso-bidi-font-size: 12.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century; mso-fareast-language: JA;"&gt;神の住む世界すなわち古事記の「高天原（たかあまはら）」は、地上に住む人間には見えず、そこに行くことはほとんど無理。しかし神に従って（随神）生きることはできる。「惟神（かんながら）」ともいう。地上と高天原を結んでいるのが「天の浮橋」で、開祖は「天の浮橋」に立ちなさいと教えられた。つまり神に従って生きることであるが、それにはしっかりとした覚悟がないと難しい。なぜなら人は易きに流れがちだから。人はそれまでの人生で垢にまみれている。この垢にまみれた己に勝つ（克己・吾勝）ために儀式を行う。キリスト教ではバプテスマ（洗礼）。仏教では頭を丸めて出家をする。その覚悟をした人を仏教では「菩薩」という。菩薩は自分のために生きるのではなく「衆生を救う」ために、自らの命をささげる（ただし出家をしないで在家のままでも「衆生を救う」覚悟をして生きることで菩薩になることはできる）。&lt;/SPAN&gt;&lt;SPAN lang="EN-US" style="font-size: 10.5pt; mso-bidi-font-size: 12.0pt; mso-fareast-language: JA;"&gt;&lt;O:P&gt;&lt;/O:P&gt;&lt;/SPAN&gt;&lt;/FONT&gt;&lt;/P&gt;&lt;FONT color="#000000" face="ＭＳ Ｐゴシック" size="3"&gt;&#13;
&#13;
&lt;/FONT&gt;&lt;P class="MsoNormal" style="margin: 0mm 0mm 0pt; text-indent: 10.5pt; mso-char-indent-count: 1.0;"&gt;&lt;FONT color="#000000"&gt;&lt;SPAN style="font-family: &amp;quot;ＭＳ 明朝&amp;quot;,&amp;quot;serif&amp;quot;; font-size: 10.5pt; mso-bidi-font-size: 12.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century; mso-fareast-language: JA;"&gt;相手を倒すために技を覚えるという人が多い。その人は地上に縛られたままで、お金、地位、名誉、物欲を尺度にして生きている。その状態で合気道を行うことはできない。合気道は克己随神、天の浮橋に立ってこそ実現する。合気道は魂魄阿吽の呼吸である。神の世界を垣間見、神に従って、魂で感じて、地上世界で具現する。魂魄阿吽の呼吸という。&lt;/SPAN&gt;&lt;SPAN lang="EN-US" style="font-size: 10.5pt; mso-bidi-font-size: 12.0pt; mso-fareast-language: JA;"&gt;&lt;O:P&gt;&lt;/O:P&gt;&lt;/SPAN&gt;&lt;/FONT&gt;&lt;/P&gt;&lt;FONT color="#000000" face="ＭＳ Ｐゴシック" size="3"&gt;&#13;
&#13;
&lt;/FONT&gt;&lt;P class="MsoNormal" style="margin: 0mm 0mm 0pt; text-indent: 10.5pt; mso-char-indent-count: 1.0;"&gt;&lt;FONT color="#000000"&gt;&lt;SPAN style="font-family: &amp;quot;ＭＳ 明朝&amp;quot;,&amp;quot;serif&amp;quot;; font-size: 10.5pt; mso-bidi-font-size: 12.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century; mso-fareast-language: JA;"&gt;天の浮橋では、いざなぎ・いざなみの命(みこと)が力を合わせ、天のぬぼこを使って大屋島を作られた。創造された。合気道の同志は天の浮橋に立って、すでに出来上がった大地を今度は修理固成することが使命。開祖が教えられた。そして地上天国の建設。われわれ合気道を志すものは、日々の稽古で「克己随神」、天の浮橋に立つことを常に忘れてはならぬ。&lt;/SPAN&gt;&lt;SPAN lang="EN-US" style="font-size: 10.5pt; mso-bidi-font-size: 12.0pt; mso-fareast-language: JA;"&gt;&lt;O:P&gt;&lt;/O:P&gt;&lt;/SPAN&gt;&lt;/FONT&gt;&lt;/P&gt;&lt;FONT color="#000000" face="ＭＳ Ｐゴシック" size="3"&gt;&#13;
&#13;
&lt;/FONT&gt;&lt;P class="MsoNormal" style="margin: 0mm 0mm 0pt; text-indent: 10.5pt; mso-char-indent-count: 1.0;"&gt;&lt;SPAN lang="EN-US" style="font-size: 10.5pt; mso-bidi-font-size: 12.0pt; mso-fareast-language: JA;"&gt;&lt;O:P&gt;&lt;FONT color="#000000" face="Century"&gt; &lt;/FONT&gt;&lt;/O:P&gt;&lt;/SPAN&gt;&lt;/P&gt;&lt;FONT color="#000000" face="ＭＳ Ｐゴシック" size="3"&gt;&#13;
&lt;/FONT&gt;&lt;/DIV&gt;
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    </item>
    <item>
      <title>頭でわかるのだができない！</title>
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      <pubDate>Thu, 22 Sep 2011 10:55:06 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2011-09-22T11:43:30+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2011-09-22T11:06:07+09:00</dcterms:created>
      <description>稽古中、たとえば「相手を受け入れるように！」と助言すると、「頭ではわかっているのですが、できません！」という言葉が返ってくることがある。この人は、恐らく合気道のほんとうの素晴らしさはわからないだろう。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
まず、「頭でわかっているができない」と思うより、「わからない」ことを認めなければならない。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
「頭でわかった」と思うのは自由だが、そう思った途端、自分の殻を破ることを止めてしまっている。この殻は、その人が生まれてから現在までにこびりついた「垢（あか）」ともいえる。合気道の稽古はこの垢を落とすことに他ならない。つまり、「頭でわかっているができない！」という人は、稽古をしていないということになる。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
しかし何かを求めて合気道の稽古’らしき’ことを続けているのだから、そのうち気が付くかも知れない。&lt;br&gt;
</description>
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    <item>
      <title>膝が硬い</title>
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      <pubDate>Fri, 11 Feb 2011 17:58:32 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2011-02-11T18:27:57+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2011-02-11T17:59:57+09:00</dcterms:created>
      <description>稽古の仲間で自分の「膝が硬い！」という人がいる。確かに稽古中に膝が固まっていると合気道の技にならない。膝が硬いと自覚することは、稽古の目標になるのでたいへんいいことだ。&#13;&lt;br&gt;
しかし膝をやわらかくするために膝の柔軟体操をするようなことに意を向けるのは、怪我をしないようにするには有効だが、真の稽古にならない。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
合気道では常に膝を緩（ゆる）めていなければ、気の流れがそこで止まってしまう（重力を使えなくなる。相手の微妙な動きに対応できない）ので、合気道の技にはならない。&#13;&lt;br&gt;
膝を緩めるためには、太腿の筋肉に負担がかかるので、ある程度太腿の筋肉を鍛えなければならないが、そのために特別のトレーニングをする必要はない。通常の稽古で常に膝を緩めることを続けていると自然に筋力がついてくる。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
むしろなぜ膝が固まってしまうのか、自分の心に聴いてみることだ。たとえば大切なものを持つときには、膝は緩んでいる。そしてその大切なものと自分が一つになっている。つまり結んでいる。膝が固まるのは、相手を大切な存在として、あるいは愛をもってきちんと受け止めていないことに気付くべきだ。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
それも一瞬でも途切れてはならない。そこに厳しさがある。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
精進しよう！&lt;br&gt;
</description>
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    </item>
    <item>
      <title>不思議</title>
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      <pubDate>Sat, 20 Nov 2010 08:05:51 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2011-02-11T18:23:25+09:00</dcterms:modified>
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      <description>&lt;DIV class="asahi_editor_line"&gt;&lt;BR&gt;&lt;DIV class="msg-pict-2" style="BORDER-BOTTOM: medium none; TEXT-ALIGN: center; BORDER-LEFT: medium none; BORDER-TOP: medium none; BORDER-RIGHT: medium none"&gt;&lt;IMG width="300" height="200" src="http://mutan.asablo.jp/blog/img/2011/02/11/15a8a8.gif" style="BORDER-BOTTOM: medium none; BORDER-LEFT: medium none; WIDTH: 300px; HEIGHT: 200px; BORDER-TOP: medium none; BORDER-RIGHT: medium none"&gt;&lt;/DIV&gt;&lt;/DIV&gt;&lt;DIV class="asahi_editor_line"&gt;　&lt;BR&gt;昔、合気道を本部道場で始めた頃、T師範が「折れない手（腕）」なるものを教えてくださった。腕を前にのびのびと力まずに伸ばし、それがはるかかなたまで、延びているように念じること。誰かが、その腕を力づくで曲げようとしても、その念が揺るがないようにすると、その腕は弾力性を保ちながら「不思議に」曲がらない。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;実際に腕は曲がらないにもかかわらず、なぜ「不思議」と思うのだろうか？それは、誰かが腕を曲げようとして力を加えられた時に、それに抵抗すると腕にそれなりの「抵抗感」があるはずだと思い込んでいるからだ。その思い込みと実感とは違うので「不思議」と思ってしまうというわけだ。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;それを不思議のままにしておくのは、合気道を稽古する意思がないのも同じ。不思議でなくなるのは、自分の見方が変わらなければならない。見方が変われば不思議だったことが「当然」となる。見方を変えること、大げさにいうと&lt;BR&gt;自分を変えること、それが稽古。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;精進しよう！&lt;BR&gt;&lt;/DIV&gt;
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    </item>
    <item>
      <title>実感がない</title>
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      <pubDate>Sun, 01 Feb 2009 00:00:00 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2010-07-25T07:30:28+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2010-07-19T11:41:08+09:00</dcterms:created>
      <description>稽古中に相手に助言を求められ、相手がその助言通りにすると、技になる場合があります。ところが、返ってくる言葉が「実感がないので、よくわかりません。」&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
助言はしない方がいいと思いますが、相手から求められて助言し、身体の状態が改善されて、結果として技になったにもかかわらず、「実感がないので・・・」？？？。&#13;&lt;br&gt;
心に引っ掛かります。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
合気道の技は、投げたり抑えたりしますが、技をかける時の「実感」というのは何でしょうか？相手からの圧力、あるいは抵抗感でしょうか？&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
合気道の技は、通常の力ではなく、「呼吸力」によって生まれます。呼吸力は、私の解釈というか実感として、相手と結んでいる状態で自分が動けば相手が動く、その力だと考えています。その時には相手からの圧力や抵抗感はありません。呼吸力によって生まれる技は「実感がない」のは当然です。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
技が生まれたときの「実感」を感じたいのなら、「実感」の概念を変えなければなりません。相手と結んでいる状態を「実感」すればいいと私は思います。それが稽古だと思います。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
「実感がないのでわからない」というのは、稽古をしたくないと言っているようなものです。言いすぎでしょうか？&lt;br&gt;
</description>
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    <item>
      <title>タイミング</title>
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      <pubDate>Sun, 01 Feb 2009 00:00:00 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2010-07-22T14:15:11+09:00</dcterms:modified>
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      <description>　稽古中に、「タイミングが遅い！」と指導されているのを観て（聞いて）、心にひっかりました。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　「受け」が正面打ちに来るのに対して、入り身をするときなど、確かにタイミングが遅れると打たれてしまいます。まして、手刀ではなく剣ならば生命を落としてしまいます。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　しかし、「タイミングが遅れないように注意して」入り身をするのは、無理があるように感じます。つまり「打たれないように」、あるいは「切られないように」するからで、うまく行く時もあるし、失敗するときもあります。これでは、いつか壁にぶつかります。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　開祖は「合気道は無抵抗」と言われました。ということは、打たれても、切られてもそのままでいなさい、ということです。普通そんなことはできません。目に見える世界、あるいは理屈では矛盾することです。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　ところが、目に見えない世界では少し違うようです。無抵抗でいて、打たれたり切られたりすることを覚悟すると、相手が相手で無くなる瞬間があります。これは簡単なことではありません。極端にいうと「死を覚悟」する、あるいは相手に自分の命を預けることです。開祖の言葉を心の底から信じて、相手が打ってきても、突いてきても、何をされようと無抵抗でいることができるよう、稽古するのが合気道です。そして本当にそうなった時、何が起こるかを実感しなければなりません。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　打たれないよう、切られないように、タイミングを計るのは合気道の稽古ではないと思い、無抵抗を修行しています。&lt;br&gt;
</description>
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    <item>
      <title>返し技</title>
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      <pubDate>Sat, 24 Jan 2009 14:00:33 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2010-07-22T14:16:03+09:00</dcterms:modified>
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      <description>　「高段者が下の者の受けを取る時、返し技をするのはやめるべきだ」という人がいた。心にひっかかった。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　その人がいうには「高段者が下の者の技を返せるのは、当たり前。それで自分の強さを誇示することは、慎むべきだ」と。確かにそれはその通りで、そういうつもりで「返し技」をしたのでは、下の者の稽古を妨げることにもなる。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　しかし返し技というのは、受けを取っている時、技を返そうと思ってやるのではなく、相手に従っていると、相手の体のどこかに隙間を感じ、その隙間に自然に入って行った結果、返し技になる、というものだ。譬えていうと、水が岩の割れ目に浸み込むように、である。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　そして、返された方は普通どう感じるかというと、不快感はないようで、恐らくその逆であろう。その証拠に、返し技をして（になって）返ってくる言葉が「ありがとうございます」とか、その時は何も言わなくても終わってから「勉強になりました」と言われる。また言葉はなくても、親近感は間違いなく深まっている。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　返し技をすべきでないという場合、合気道の稽古を型の稽古の枠を抜けていない。もちろん初心者はそれでよい。しかし合気道は最終的には型はない、というかそんなものは自然に消えてしまう。「返し技」もそうだが「取り」とか「受け」の区別もなくなる。なぜなら、合気道は愛の武道だから・・・&lt;br&gt;
</description>
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    </item>
    <item>
      <title>技を盗む</title>
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      <pubDate>Mon, 12 Jan 2009 00:00:08 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2017-08-29T16:58:31+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2010-07-22T13:59:42+09:00</dcterms:created>
      <description>　「あの先生は俺の技を盗んだ。」「あの技は、俺の技から盗んだものだ。」というある人の話を聞いた。心にひっかかった。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　苦労して苦労してやっと自分のものにした（と思っている）技を、あるとき別の師範がそれと似たような技を披露された。しかも明らかに以前のその師範の技とは違う。そしてそれを講習会で教えている。そのような時、あの先生は俺の技を盗んだ（怪しからん）と思ったのだろう。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　稽古を続けて技が上達するというのは、身体も心も軟らかくなり、動きが滑らかになり、形の上で美しくなり、品格が備わるということである。そしてそのプロセスを通して、共に稽古をする仲間、さらに世の人々に奉仕して、平和な世界を目指しなさい、というのが開祖の教えである。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　技を盗まれるのは、大いに結構。逆にありがたいと感じるのが、本来の姿である。盗んだ人がそれによって、金儲けをしたとしてもである。盗んで怪しからん、と思うようではまだまだ修行が足りぬ。&lt;br&gt;
</description>
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      <title>相手の弱点を攻める</title>
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      <pubDate>Fri, 09 Jan 2009 00:00:00 +0900</pubDate>
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      <description>&lt;DIV class="asahi_editor_line"&gt;　稽古中、技の説明をするとき「相手の一番弱いところを攻めなさい。」と言う指導者がいる。心にひっかかる。&lt;BR&gt;&lt;/DIV&gt;&lt;DIV class="asahi_editor_line"&gt;　実際、＜片手取りすみ落とし＞などの技では、相手の斜め後方に自分の手を持っていって相手を落とすように投げる場合が多いが、それを「相手の弱いところを攻める」というと違和感を覚える。&lt;BR&gt;&lt;/DIV&gt;&lt;DIV class="asahi_editor_line"&gt;　相手に片手を取られて、そこから技をかける稽古をする場合、何もしなければ投げることができない（と普通は考える）。しかも開祖は「真の武道は万有愛護、和合の精神でなければならない」と教えられた。&lt;BR&gt;　何もできない。動けない。当然である。ここで何もできないことをしっかり受け止めなければならない。安易に相手を投げようとすると開祖の教えに背いてしまい、合気道の稽古とは別物になってしまう。&lt;BR&gt;&lt;/DIV&gt;&lt;DIV class="asahi_editor_line"&gt;　そこでどうするか？ここでは、投げようとせず、開祖の教えに素直に従わなければならない。万有愛護、和合の精神で、相手を受け入れなければならない。頭で考えて受け入れるのでは受け入れたことにはならない。心から受け入れる。あるいは誠意を尽くして受け入れる。&lt;BR&gt;&lt;/DIV&gt;&lt;DIV class="asahi_editor_line"&gt;&lt;DIV class="msg-pict-2" style="BORDER-BOTTOM: medium none; TEXT-ALIGN: center; BORDER-LEFT: medium none; BORDER-TOP: medium none; BORDER-RIGHT: medium none"&gt;&lt;IMG width="300" height="200" title="真の武道は万有愛護、和合の精神で" alt="真の武道は万有愛護、和合の精神で" src="http://mutan.asablo.jp/blog/img/2009/01/09/8a70c.gif" style="BORDER-BOTTOM: medium none; BORDER-LEFT: medium none; WIDTH: 300px; HEIGHT: 200px; BORDER-TOP: medium none; BORDER-RIGHT: medium none"&gt;&lt;/DIV&gt;&lt;/DIV&gt;&lt;DIV class="asahi_editor_line"&gt;　しかし心から相手を受け入れるの難しい。受け入れられない自分を禊をして落としていくのが合気道の修行であり、稽古である。心から相手を受け入れることができたとき、相手は相手でなくなり、結果として合気道の技が生まれる。&lt;BR&gt;&lt;/DIV&gt;&lt;DIV class="asahi_editor_line"&gt;　相手の弱点を攻める、などと考えたり、言っているうちは合気道の稽古になっていない。むしろ開祖の教えに背いていて、百害あって一利なしである。言い過ぎだろうか？&lt;/DIV&gt;
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      <title>自分の合気道</title>
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      <pubDate>Wed, 07 Jan 2009 00:00:00 +0900</pubDate>
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      <description>&lt;DIV class="asahi_editor_line"&gt;　最近”今回昇段することができ、・・・道を究める努力を惜しまず「自分の合気道」を探求していくつもりです。・・・”というメールを見たとき、「自分の合気道」という言葉が心にひっかかった。&lt;BR&gt;　&lt;BR&gt;　実際合気道の稽古は、自分のその時の状態しか出ないので、「自分の」はいうまでもないことである。したがって「自分の」をつけると、次のような意味に感じられる。&lt;BR&gt;　つまり、真の合気道は自分にはわからないので、合気道の修行を自分のわかる範囲に枠を作ってしまっている。また、これによく似た表現に「あの先生の指導は解りやすい」というものがある。これも「解りやすい」ことを高く評価していることで、真の合気道とは別物である。&lt;BR&gt;　真の合気道は、わかりにくい、あるいは難しいものである。「合気道は愛だ」と開祖が言われた。相手を投げるのに何が愛だ、と思うのは自然である。そこを「合気道は愛」ということを求めて修行するわけだから、難しいのは当然である。&lt;BR&gt;&lt;DIV class="msg-pict-2" style="BORDER-BOTTOM: medium none; TEXT-ALIGN: center; BORDER-LEFT: medium none; BORDER-TOP: medium none; BORDER-RIGHT: medium none"&gt;&lt;IMG width="300" height="200" title="合気道は愛" alt="合気道は愛" src="http://mutan.asablo.jp/blog/img/2009/01/07/8a705.gif" style="BORDER-BOTTOM: medium none; BORDER-LEFT: medium none; WIDTH: 300px; HEIGHT: 200px; BORDER-TOP: medium none; BORDER-RIGHT: medium none"&gt;&lt;/DIV&gt;&lt;/DIV&gt;&lt;DIV class="asahi_editor_line"&gt;　「相手を投げるのに何が愛だ」と思う自分に焦点を当てて、禊をし、その自分を落として、一段階上の自分を発見するのが、合気道の修行であり、稽古だ。合気道に「自分の」をつけると、本当に修行する気があるのか疑わしくなる。へそ曲がりかな？&lt;/DIV&gt;
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